子どもを人に紹介できないと感じた日の正直な記録

人に会う予定がある日、

ふと、連れていくのは難しいかもしれないと思った。

年齢的には、

もう少しできてもいいのかもしれない。

そんな考えが、頭をよぎっる。

ご挨拶がうまくできない。

人見知りが強い。

場所見知りもあって、

オープンな場は大丈夫そうなのに、

人が集まる場所では固まってしまう。

食事のときのお行儀も気になる。

「〇〇するよ」と声をかけても、

素直に従わないことがある。

ひとつひとつは、

どれも珍しいことではないと分かっている。

それでも、その瞬間、

胸の奥に浮かんだ言葉があった。

――ああ、人に見せられない。

そう思ってしまった自分に、

少し戸惑った。

少し前のことを思い出す。

上の子が2歳になった頃、

友達の子どもと一緒に遊ばせたことがあった。

そのとき、

おもちゃをひとつも貸せなかった。

全部、自分のものだと言って抱え込む。

かと思えば、

突然「これはいいよ」と自分から差し出すこともある。

一貫性がなくて、

見ているこちらは、ずっとハラハラしていた。

取られそうになると、

激しい癇癪になることもあった。

上の子の気持ちが分からないわけじゃない。

自分のおもちゃだもんね。わかるよ。

それでも、その場の空気はどうしても気まずくて、

私は居心地の悪さを感じていた。

横に来て一緒に遊ぼうとされると、

きょとんとした顔をして立ち尽くしていたこともある。

いつもは個人活動だから。

その様子を見て、

また少し、身構えてしまった。

もちろん、

できるときもある。

落ち着いて挨拶ができる日もあるし、

声をかけると、すんなり動いてくれる瞬間もある。

だから、

「できない子」だと思っているわけではない。

それでも、

その一点だけで、

親である私まで評価されてしまう気がしてしまう。

求めすぎなのだろうか。

そう自分に問いながら、

答えは出ないまま、立ち止まる日がある。

子どもと一緒にいる時間が長くなるほど、

一人で動けない日々が続く。

気がつけば、

誘われても断る理由を考えることが増え、

友達とも、対面では会えない時間が続いていた。

誰も私を知らない場所なら、

きっと大丈夫なのに、と思う。

知られていない視線の中では、

子どもの振る舞いも、

私自身の立ち居振る舞いも、

少しだけ自由になれる気がする。

知っている人の前では、

どうしても「ちゃんとしている親」でいようとしてしまう。

結局、

この躊躇の正体は、

子どもではなく、私自身なのだと思う。

書いているうちに、

自分はしつけができない親なのではないか、

ダメな親なのではないか、

そんなふうに思えてきて、少し悲しくなった。

子どもの特性を捉えようとしているつもりでも、

「言っても響かないから」と受け止めることが、

そのままでいい、ということなのか分からなくなる。

ちゃんと伝えなくていいのだろうか。

求めなさすぎてはいないだろうか。

難しい。

考えれば考えるほど、

答えは簡単には出ない。

それでも、

注意したときにすんなり応じてくれる瞬間があったり、

昨日できなかったことが、

ふとした拍子にできるようになっていたりする。

その小さな変化に気づくたび、

成長は、確かに起きているのだと思わされる。

信じるというのは、

何も言わないことでも、

期待を手放すことでもなくて、

できない日があることを知った上で、

それでも可能性を閉じないことなのかもしれない。

今日は、

ただその事実を書き留めておく。

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この記事を書いた人

答えよりも、向き合ってきた記録。

この場所では、
子どものことで悩み、
正解が分からなくなったときに、
母として立ち止まり、
考えてきたことを
言葉にしています。

敏感さや悩みながらの子育ての中で
「どうすればいいか」よりも、
すぐに答えを出せないまま、
立ち止まりながら考えてきました。

子育てのこと、暮らしのこと、学びのこと、
そして生き方のこと。
結論を急がず、
向き合い続ける時間と姿勢を、
ここに残しています。

ここにあるのは、答えではありません。
けれど
「私だけじゃない」と思って向き合える記録です。

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